三つの約束をいたします。
まず、僕は絶対に悪いことはしません。
そして、最善を尽くします。
最後に、何でもおっしゃってください。何でもお聞きします。
僕が、初対面の訪問診療の患者さんに、診療を終え、別れ際にお伝えすることだ。
患者さんとの約束であり、そして決意表明である。
ともに歩むための約束、そして決意表明だ。
さて、僕は、患者さんに寄り添うことはない。
(寄り添うことが)できない、と言ったほうがより正確かもしれない。
寄り添う、とはどういうことだろうか。
おなじみ広辞苑によると、
寄り添う:ぴったりとそばへ寄る
とある。
なるほど、「寄る」のだ。
(ここからは、独断と偏見の、少々言葉遊び)
「寄る」以上は、あくまで外的存在だと思う。
患者に寄り添う医師とは、患者さんにとっては、あくまで他人であり、助言者に過ぎないのではないか。
医者にとっては、患者さんとはやはり他人であり、一定の距離を保つべき存在なのだろう。
僕は器用じゃないから、患者さんと距離を保つことはできない。
だから、距離をおかず伴走することを選ぶ。
つまり、ともに歩むということ。
そう、二人三脚のように。
隣で、後ろで、直近で、ちょっと離れて。
ただ、ともに歩む。
そうじゃないと、支えきれない、助けられない患者さんがいる。
写真のおじいちゃんもそうだった。
医者でありつつも、息子に、いや友人でないと。
あるとき、一人で、訪問すると、いつもは灯りがついている部屋が真っ暗だった。
もしやとおもって呼吸が止まりそうになったが、大丈夫、生きていた。
熱が出て、苦しいと。
入院しようか、と尋ねると、トイレに行くという。
どうみても立ち上がることすらままならない。
手を貸しますかと言おうにも、手を貸させてくれず、一人で黙々と歩き出す。
ぼくは、カルガモ親子の子どものごとく、後ろをただついて歩く。
やっとトイレに付いた。
良かったと思うも、そこで体力を使い果たしたか、ベッドまで戻れない。
一緒に戻る。
このとき必要だったのは、寄り添いじゃなかった。
そばにいて、一緒に歩くことだった。
杖となり、足となる。
お亡くなりになる数日前、「どうですか?」と尋ねると、どうみても苦しいのに、指をチョキ、そう、ピースで返してくれた。
なるほど、そういうことか。
OKじゃなく、ピース。
僕は、不器用な医者だ。
三つの約束をして、自分に言い聞かせて、ただただ、一緒に歩む。
寄り添うではなく、ともに歩む。
これが、僕の生き方だ。
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総合診療をベースに、認知症治療と在宅医療、そして終末期医療に取り組んでいる、事象「患者バカ町医者」の松嶋大が、日々の実践をみなさんに共有し、またみなさんからも共有してもらいながら、これからの「医・食・住」を語り合うサロンです。