「先生、こんど、この病院をやめて、どちらかに行かれるんですって??」
『おっと、情報が早い。そうなんです』
「先生、私を看取ってくれるって約束してくれたじゃない。私はどうすればいいの?」
『あー、そんなことを言わなくても、僕についてくればいい。僕も、あなたの、死に水を取ってあげるって約束したじゃない。あと、弔事も読むって』
「じゃあ、先生についていくわ。最期までみてちょうだいよ」
5年前の今ころの会話です。
私が勤務先の病院を退職し、4月に開業するというころです。
この方は、一昨年、無事、見送りました。
約束通り、弔事も読みましたよ。
そして、ご家族にお願いして、写真の椅子を形見分けしてもらいました。
一番座っていたのが患者さんだとしたら、次は僕だと思ったんですよね〜。
(この椅子は、僕の診察室の椅子として大活躍中です)
僕は、ホント、幸せ者です。
この患者さんのように、「看取ってほしい」とお願いされることが少なくないので。
でも、正確には違います。
患者さんが願っているのではなくて、僕が僕の手で看取りたいと思っているんです。
「看取らせてください」とお願いすることもあれば、「最期までお願いします」とやんわり言うことも。
最期まで診たいという僕の強力なパワー「僕の手で看取りたい」が、患者さんに、「看取ってほしい」と言わせているに違いないです!!
この1週間、お二人の方を見送りました。
一人は、患者さんの域を超えて、同士というか同志のような感覚をもっていた方。
かれこれ十年近く担当し、本当にいろいろあった方。
いいときも、わるいときも。
命の危機にひんしながらも、何度も助けました。
最晩年は、認知症も重くなり、「なんだかわがんね」が口癖のようでしたが、「まだ死なないか?」という僕の悪態にも、「まだ大丈夫だ」と答えるような方。
臨終のときは、僕は涙は全く出ず。
無事送り出したという安堵感でいっぱいだったので。
だって、本当にいろいろありましたもの。
苦楽をともに。
僕の手で看取ることができて、ホント、良かった。
ありがとう。
もうひとり。
決して長い付き合いではなかったけど、やっぱり、いろいろあった方。
いろいろあったというより、いっぱい教わった方。
家族の愛情も半端なく、いつも圧倒されていた僕。
家族にも、いっぱい教わりました。
本人には見送られ方が、家族には見送り出し方がある。
当然、本人の意思が大切だけれども、残される家族の想いも絶対に無視できない。
そんなことを、この方とはいつも考えていました。
絶対に本人軽視ということではありませんよ。
本人を中心に、家族まで含めた最大幸福のあり方を模索し続けました。
本当にいっぱい、教わりました。
ちなみに、この方、「僕に看取ってもらう」と初診時にきめていらっしゃったとのこと。
とても光栄だし、その想いを果たせて感無量です。
でも、正確には、やっぱり、「僕の手で看取りたい」だったんです。
そのオーラが、初診時から出ていたんでしょうね。
医者も人間です。
患者さんを差別してはいけませんけど、いつも以上に頑張りたいと思える時もあれば、どうにもこうにも気が進まないというときも。
その違いはなんでしょう。
もちろん、人です。
信頼してグイグイ来てくださる方には、こちらもグイグイいきたい。
そんな感じ。
いずれ、僕は幸せな医者です。
僕の手で看取りたい、という方とばかり出会えるので。
これからもずっと。
お一人おひとり、しっかり、しっかりと。
いつもありがとうございます。
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総合診療をベースに、認知症治療と在宅医療、そして終末期医療に取り組んでいる、事象「患者バカ町医者」の松嶋大が、日々の実践をみなさんに共有し、またみなさんからも共有してもらいながら、これからの「医・食・住」を語り合うサロンです。