【備忘録、そして最大限の敬意とともに】
患者・医師関係も、その内容は実にさまざまだと思う。
そんな中でも、今回はとびきり特殊な関係だった。
あえて表現するならばライバルのような関係。
患者と医者の間なのにライバル?
一般的に、患者さんは何かしらの治療を求めて医師のもとを訪れる。
医者は、治療を期待する(求める)患者さんのために最善を尽くす。
いわば、治療における同盟関係が、患者・意思関係の基本のように思う。
今回のお相手は、末期がんを患っていた。
僕は、最期まで、ほぼ治療しなかった。
定期的な診療もなく、求めがあれば診療に行くという特殊な関係。
とはいえ、これでも一応、主治医であったつもり。
主治医ならば、通常、定期的に診療するものだが、今回は定期診療はなし。
あくまで、本当に必要なときだけ。
なぜなら、何も治療をしないから、定期診療がいらないのだ。
治療がないくてもやることがあるはずだから、定期診療があって当然だとおっしゃる方もいるかと思う。
が、あえて定期診療をしないという対応(特別な治療)もあると僕は考え、僕はあえて定期診療をしなかったというのが本音。
つまり、定期診療すらないほうがいいと思ったのだ。
それでも、初対面のときは、それでも、何かしらの治療をしようと思った。
が、話しているうちに、治療をしないほうがいいなと。
ご本人が全面的に治療を拒否したわけではない。
また、僕が、頑なに治療をしないと言ったつもりもない。
ただ、治療をしないほうがいいと思ったのだ。
初対面のときに、そう思ったのだ。
それは、なぜか?
書かないでおきたい。
だから、初対面のとき、次、会う時はその時だと。
そう、臨終のとき。
この予定だけは崩れた。
来てほしい、と連絡があった。
看護師さんたちも、ぼちぼち薬が必要だからと、先生(僕のこと)から説明や、場合によっては説得が必要ではと。
行かないでおこうとも思ったのだが、求められて動かぬのは医師の恥。
結局、伺った。
本人は揺らいでいて。
苦しいし、辛い。
薬を使ったほうがいいのかと。
周囲も揺らぐ。
苦しみをとってあげてほしい。
でも、本人の意思を尊重もしてほしい。
治療の是非について、本人と語り合った。
やっぱり、治療をしない方がいいと思った。
「医者の無用な正義感を押し付けることで、あなたらしさを奪いたくない。あなたらしく、最期まで過ごし続けていただきたい。それが僕の願い」と伝えた。
僕は最後の挨拶をした。
「あなたは特別です。こんなに強い人は見たことがない。本当に素晴らしい人と出会えました。特別です」
「ホント?」
「ホントです、特別」
「良かった」
「そして、最後の主治医にしてくれてありがとうございました」
「ホント?」とおっしゃったときの表情、「良かった」というときの表情。
そばにいたご家族は気づいたろうか。
女神のような表情だった。
数日たった今も、目を閉じると、はっきりと思い出すほどの女神の顔。
結局、治療はほぼしなかった。
最期まで、治療については平行線だった。
医学バカの僕からみれば、この平行線は、やはりライバルと考える。
たいていは、患者さんの方から医者側に寄ってくるか、医者側から遠ざかっていくか、たいていはどちらかのベクトルだが、今回は平行だった。
だからライバル。
でも、本当はどうだったろう。
ご本人は、治療を本音では期待していたのではないだろうか。
それでも治療をしなかったのは、僕のエゴではなかったか。
この答えを知りたいと思い、何度も何度も尋ね、何度も何度も自問した。
結局、僕の結論は変わらなかった。
臨終後、ご家族から伺った、旅立ちの朝のご本人の言葉に心がつまった。
書かないでおきたい。
ホント、終わりなき旅だ。
患者さんのおもい、患者さんにとっての最善に至る旅。
どこまでも辿り着けない。
辿り着けないからといって諦めるわけにはいかない。
辿り着けないからこそ、辿り着こうと探り、努力を続けたい。
おそらく、今後、今回のような関係性を構築する患者さんとは出会えないと思います。
絶対はないと思いつつ、やっぱり絶対ないような。
患者さんも素敵でしたし、その本人を支える家族もまた素敵でした。
今回の縁に、深く感謝いたします。
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総合診療をベースに、認知症治療と在宅医療、そして終末期医療に取り組んでいる、事象「患者バカ町医者」の松嶋大が、日々の実践をみなさんに共有し、またみなさんからも共有してもらいながら、これからの「医・食・住」を語り合うサロンです。