町医者 松嶋大ブログ

岩手県盛岡市で「なないろのとびら診療所」を運営する町医者・松嶋大のブログです。

先生と呼ばれて

25歳で医師になった僕は、かれこれ20年ほど「先生」と呼ばれる生活を続けている。

 

人生の半分までもう少し。

いずれ、「非先生」時代ははるか遠くになった。

 

あらためて考えてみると、医療以外の場でも、「先生」と呼ばれることがほとんどだ。

たまに、「松嶋さん」と呼ばれると、自分のことなのかを一瞬分からなくなるほどの、「先生バカ」になってしまった。

 

その一方で、友人や同級生が「松嶋くん」と呼んでくれると、素の自分に戻った感じもする。

 

こう考えると、私は普段、「先生」を演じているのであって、やはり根っからの「先生」ではないのだと気づく。

 

 

 

さて、前置きが長りました。

本題へ。

  

先日、終活の勉強会で、参加者の方から、とあるエピソードを伺った。

内容は控えておくとしても、あらためて、

 

・なぜ、患者と医師は分かりあえないのだろうか。

・なぜ、医師は患者の気持ちを汲めないのか。

 

と思った。

 

 

あることを思い出した。

ずっと前、僕が医師になる前に、父が言ったこと。

 

僕の幼少期のかかりつけの先生について。

 

「◯◯先生(僕のかかりつけの先生)だけは、こっちの診断名を聞いてくれるんだよ。『先生、風邪だと思うんですけど』って言うと、『なるほど、そうだな』って。そんな先生、どこにもいないよ」

 

 

当時の僕は、不思議でならなかった。

結構当たり前な感じだけどなぁと。

患者さんが言ってくれたら、むしろありがたいよなぁと。

 

しかし、今、当時のかかりつけの先生の側に立ってみたら、父の言わんことがいくらか分かるような気がする。

当時の僕は、患者側の世界(物語)の住人だったけど、今や先生側の住人になったから。

 

先生には先生の物語がある。

この物語の中にいる限り、先生と呼ばれるようになった僕はやはり心地よいことが多い。

しかし、時折というか結構頻回に気持ち悪いときもある。

先生の物語から少しだけお出かけして、そこで見える物語がまた面白かったりする。

そして、刺激的。

 

 

物語と物語の間をもっと自由に行き来できれば面白いのに。

 

 

患者と先生の間に溝や壁があるのは仕方ない。

違う物語の中に生きているのだから。

 

ただ、お互い、その障壁の存在にもっと敏感である必要があると思う。

 

お互い、というところが私の考え。

お互いが障壁の存在を見つめ、お互いが勇気を持って一歩踏み出す。

先生だけじゃなく、患者さんも。

それぞれの物語をリスペクトして。

 

ただ、立場的に医者が強いことが多いので、医者の一歩はできれば大きめに。

それが、先生と呼ばれる立場のエチケットかなと。

 

 

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「終末期医療に取り組む町医者が語る新しい終活」の様子